男女構成比の偏りに思うこと

ちょっと社会的なことを、内的な観点から考えてみます。

 

例えば社会問題を扱うような色々な会議体や組織の構成メンバー、参加者が男性に偏り、女性が少なすぎるという現象をよく目にします。

そしてそのことを問題視する議論があります。

 

一方、芸術に関する場であったり、健康・心・精神・幸福など目に見えないことを扱うセミナーやワークショップなどの参加者は、ほとんどが女性であるように思います。

このことを問題視する表だった議論はほとんど目にしませんが、そういった場へ参加する女性たちの中には、世の男性たちにもっと美的なこと、内的なことに心を向けて欲しいと願う方が少なからずいるように思うのです。

 

さて、日本で見られるこの現象は、果たして問題なのか?

 

僕は社会人としての人生の前半を社会問題を扱う場や企業で過ごし、後半では人の内的な探求の場づくりを行なっています。

その両方を経験して思うのは、一般的に女性は勘が鋭く、鼻が効くということです(これは、世の既婚男性の多くにご賛同いただけると思います)。そして感性が豊かで内省的な面を持ち、争いよりも調和や平和を志向していることです。それは、女性性と言われるものの一面かもしれません。

もちろんそういう男性もいるし、そうでない女性もいます。

 

社会問題を解決するには、外に目を向けるのではなく、自分の内側に向かう必要があるということを、多くの女性は無意識のうちに、そして直感的に感じ取っているような気がしています。問題の原因は現象が起きている世界にあるのではなく、一人ひとりの内側にあるという考え方に真実を感じ、これまでの時代を支配してきた根本的なものの見方、捉え方(パラダイム)自体に真実を感じなくなっていると思うのです。パラダイムに関する議論もこれまでありましたが、その議論自体が既存のパラダイムに乗っかっているような、どことなく上滑りした虚しさを感じていると思うのです。

聞き取り調査したわけではないので、あくまでも僕の仮説です。

 

「問題は、それを生み出した次元では解決できない」

 

この言葉の本当の意味を、いま静かに立ちあがって、生き様として広め始めている女性たち増えてきているのだと思う。

 

たとえ既存の会議体や組織が男女構成比を変えて議論したとしても、時代はそんなことでは対処できないところにきている。

男女構成比の偏りは問題なのではなく、既存の会議体や組織が崩壊していくプロセス。

憂うべきことではなく、新しい時代への道。

原因を内側に探ること。

 

そんなふうに思うんです。

 

皆さんは、どう思いますか?